2015年3月7日 ミニオフ会記録
話題提案
1.リスパダールを処方されて、主治医は低め安定をおすすめするが、それでは生きる楽しみを実感できない。高め安定は実現できないのか。
3.社会復帰 職に就いたら福祉が廃止される 職に尽きたいけど、福祉がきられるのが怖い そのジレンマについて
5.自分が消えてしまいたい、死んでしまえばいいと思うのが、他の同病者にも当たる言葉になってしまうから、それほど重みがある言葉だと認識するべきか
6.働くって何?
7.関東ウエーブとは何ぞや
話題1.低め安定だと生きる楽しみが実感できない(高め安定は実現できないのか)
話題提案者より:主治医から低め安定の処方をされている。高めになると危険な状態になる(自傷行為など)。低めが低めすぎて、楽しみがなくて、そんな生き方でいいのだろうか。知っている人で、高め安定の処方にされている人がいる。なぜ低め安定処方が主流で高め安定は推奨されないのだろうか。
低め安定に抵抗があって、処方されているリスパダール一錠一ミリを一日三回の一回しか飲んでいない
・私も今まで低め安定が勧められてきたけど、ニュートラルがいいって先生もいる そのような先生を探して、相談してみれば
・うつの人は低め安定をどちらかというと望む
でも躁うつ病者は躁がある。躁で人生、命が脅かされることを話題提案者が自覚しているのであれば、なおさら低め安定を目指すのが理想的かもしれない。その反面、高め安定は過ごしやすいって以上に、低め安定では就労ができない現実がある。
(リスパダールを)一日一回しか飲まないと判断したのは、当事者の中だけの話だったら、有りだと思う。
つまり、自分自身の人生に責任を持とう、自分の人生は自分で生きる=薬は自分で考えて調整するのも有りだと思う。
大体、低め安定とは基本的に医療的、社会的な見地から見て「周りに迷惑をかけない」から望ましいのであって、当事者目線ではない。もちろん、自分にも周りにも迷惑をかけてはいけないが、自分の人生が人に取られてしまっている=低め安定という関連性があるのであれば、それはいけない。
つまり医師任せではいけない。一人では医者と治療面について同等に話すのは困難かもしれないけど、同病者が集まって知恵を出し合って力を発揮できる。だから自助会があるのだ。
・低め安定だと楽しみがない。少しぐらい楽しみがあってもいいと思う。
・うつだとちょっと、と先生に相談したら、服薬が変わった。ラミクタール、リーマスを増やされた
・話題提案者:ラミクタールを400mg服用してる。
・ラミクタールを増やすのは危険なところもある=躁転を促すところもある
・薬をあまり飲みたくないから、減らしたい。ラミクタールを処方されてから、うつにはならなくなったが、「苦しい高揚」(ハイなんだけど、感情が高ぶりすぎて、頭が回りすぎて、色々やれすぎて、苦しい)が続いている。芸術活動しているときはハイぐらいの方がいい。うつになるより死んだほうがまし。
医者は本当に理解していない。自分が処方した薬なのに、効果について責任を取る気もなく、効かなくても他人事のよう。
・毎日を最低限にでも、人間らしく楽しめる生きるとはどうゆうことだろう。それを目指すにはどうすればいいのだろう。
とにかくそれは人として絶対ゆずれないこと、妥協してはいけないことなのは確か。
なぜ低め安定が進められているのか。周り思考であって、当事者思考ではない。
もともと、この病気の治療は、薬の問題だけに還元できない。一個人として、病識を持って、自分の望む治療や生き方を意識できることだけにも還元できない。 躁うつ病は根本的に社会病であって、社会的見地から病気を捉えて、自分を超えて、もっと普遍的に人間らしい生き方は何だろうと捕らえる必要があると思う。人が何気ない楽しみを味わう余裕がある社会をどう目指せるか。
私はそれを日々考えるのが楽しい。
・精神科医は、果たして 精神病の専門家なのか。生身の人間に対する専門家は、むしろ臨床心理士。と言っても、自分が責任を担う対象が人間であるという専門家が、ちゃんとそれを意識していることは少ない。
なぜ専門家が低め安定が好むのか。事なかれ主義。問題を起こすよりおとなしく寝てくれ。しかし全部がそうだというわけじゃない。奇特な方もいる。
・低め安定でも楽しく暮らせないか
→話せる相手がいるか
→いいテレビ番組
→ペット
→☆今後これは自助会としても追及するべき
・主治医との関係は大切にするべき、その中で自分の主張をぶつける、意思疎通をきちんと取る。その討論の中で自分の中の責任感が強まって、自覚していく。医師を無視してやると無理がくるときが来る。
医師に対して物申すときは何を意識すべきか。医者の務めを QOL を上げること。その医師が患者の QOL を下げていることはいかなることか。低め安定に関しても、あなたの人生を考えてのことだ、と思っているとしたら、それは医者の自己満足。
医者と討論する中で、緊張感が生じるだろうが、それを乗り越える中で、自分も責任を担っていく。
一人で乗り越えるのは難しいから、自助会がある。
・ラミクタールとエビリファイは同時期に出た。エビリファイに対してはすごい宣伝をしたが、ラミタールはほとんど宣伝されていない。ラミクタールの副作用によって、本来利益をあげないといけない製薬会社の足をすくんでいる。リーマスの代わりのラミクタールとして売るのは難しい(上がったのを下げるのは難しい)
・ kyupin 先生によると1mg でも効く薬 400mg は無駄が多すぎる 簡単な計算など、で認知の問題があったら注意して下さい
2.認知行動療法・認知両方の有用性について話題提案者より:認知療法が保険適用になってやってみたら、うつの診断が躁うつ病に変わった。
それはありがたかったのだが、治療そのものに疑問がある。認知行動療法で分かることは、「そんなの分かっているよ!分かっていてできないから、この病気なんだよ」って側面がある。実際受けた方は、すんなりと受け止められているのか。改善された方、改善されなかった方のご意見を聞いて、もしいい療法だったら試していたい。
・認知療法・認知行動療法の違いはあるのだろうか
・認知行動療法を去年やった。 40分で7000円 セッションは五回
・認知行動療法 受けたことがないが、まじめにやると90分ぐらい毎日かかると同病仲間が言っていた。実用的じゃない。
認知行動療法はうつ病向けに始められたもの。だから、自分自身を肯定しましょうと
いうもの。躁を止めるプログラムがない。むしろ自分の万能感を促す内容になってしまう。
うつ病学会 睡眠覚醒リズム表 毎日自分の状態を記録するには、これぐらいが丁度いい。
一ヶ月記録して、一ヶ月どうだったかを振り返る自分を研究して、周りにも見てもらう。
脳の障害だから、緑が赤く見える。それはしょうがない。赤じゃなくほんとは緑なんだと書いたからって、実際見えるものは変えられない。自分では自覚しにくいことも周りの目も借りて認知を正していく。そのための自助会でもあると思う。
・認知行動療法を信頼していないからあまり研究していない
認知を元に戻すことがどうゆうことなのか、もっと大きい視野で考えるほうがいい。
人は、人間関係の中で認知を調整して自分の価値観、考え方の規範を構築して、それを元に人間社会の中で生きていける。脳が故障すると、その調整が自然な形でできなくなる。悪い方に捕らえてしまう。極端に言えば、躁やうつになると人間の根底の価値観が変わるから、人間そのものが変わる。そのために自分の外に自分を作る。
揺れ動いている自分を見る、客観視する自分を作る。自己対象化。
・うつのど真ん中には考えが極端なほうに行っちゃっている中で、認知の調整などできない。自己矛盾。
・歯が痛いときに歯が痛くないと思っても痛みは変わらない。変えようともがかないで、鎮めるほうがいい。考えない。
・うつや躁と向き合う中でちょっとした心境の変化になる
書いたからって、自覚したからって状況そのものは変わらないけど、うつのとき意識的にポジティブな考えの転換をすればもうちょっと過ごしやすいのは確か。躁のときセーブしないといけないと自覚できたら、少しだけど行動が荒っぽくなくなるのは確か。病識を常にもっていることによって、完璧にはストップはかけられないけれど、過ごしやすくはなる。
・うつのときに過去のすごい嫌なことを思い出して苦しくなる。それを取っ払うための認知行動療法。 認知行動療法の先生に、取っ払うためのリマインダー(短い言葉)を教えてもらって、それを紙に貼っておいて、悪い方向に行こうとしたらそれを見てストップをかける。すごくつらい思いと共存していくのがゴールだったので、それが最近できるようになってきた。でもセッションは5回でいいやと思った。あとは自分でやればいい。
・始めてうつになった時修正するにはいい。1〜2回のうつで終わるんだったら(認知行動療法は)いい。 双極で繰り返さないで終わることはまずない。何度かうつを繰り返すと客観的に見る目は自然とつく。知識として認知が歪んでいると分かっているから、書かなくても分かっているからいいよ、と感じてしまう。
話題提案者:自分のネガティブなので(自分の状態を紙に)書いても「分かっているよ」みたいな気持ちになる。
クラスに行くにしても、自己流にやるにしても、認知行動療法にこだわらず、色々模索してみたいと思った。認知行動療法に違和感を感じているのは自分だけではないのが分かって、安心した。
・認知の歪みは直せるのかな?他の人と比べて自分は違う。変なこだわりがあったり。
個性と認知の歪みには微妙なラインがある。
・人間が変わる、価値観が変わるというけれど、自分がありたい自分、守りたい価値観を忘れないで、それも認知の歪みとして捕らえないって言うのも大事だと思う。
3.社会復帰を目指したいが、福祉を打ち切る不安もある このジレンマについて話題提案者:
働くこと=生活保護を切る ということにならないといわれたが、現実には支給額の二倍ぐらいの収入が三ヶ月続くと廃止 例えば、五ヵ月後に申請しに行けば、審査にかかる そうゆうことがあると思うと怖くて就職活動できない・生活保護を続けてください。社会復帰っていうのは資本主義社会に置ける参加の仕方。自分の形で社会には参加できる。働くと言っても、給料をもらうという意味での働くと同じ土俵で考える必要がないし、そうゆうプレッシャーを感じなくてもいい。
4.躁でやらかした時の心の復帰法
・大きな躁でやったことは、あきらめて、軽躁の時にやったことは時間を置いて相手に謝ったりする
・相手があることだから、尾を引いてしまう 病気がなんであるか知らないにしても、問題の解決は話し合って見出していけるのであればする。人に迷惑をかけない限り、散財など、(過度に後悔するなど)さほど気にしないほうがいい
・アロワナを飼って、手放さなきゃいけなかったこと。苦しかった。またペットを飼って、癒されている。
アンソニーの言うリカバリー リカバリーをどうすればいいか
・心にわだかまりを残すよりは、謝罪したり言ったほうがすっきりする。でも病気の症状なのだから、自分を責めることはないと思う。
・躁でこそ育んできた自分に大事な価値観・成長を感謝することで躁を受け止められる
例えば、病気になる前はシャイで言いたいことが言えなかったのが、躁でないときも自己主張がはっきりできるようになったこと。アートに触れるようになれたこと。
・躁という状態を受け入れない、社会のほうが変わってくれなければ解決がつかない問題でもある。
・社会が障害者を作るベクトル
障害とは何ぞや その人の生活に障害があるという意味でもあるが、 今私たちが障害者であると規定されているのは、根本的には社会に役に立たない、仕事ができないと国のお偉方が判断しているから。 どんな社会でもはずれ者・変わり者を生むけれど、それをひっくるめて社会をどうするかということを考えてなんぼの社会。 一旦障害者というスタンプをつけることによって、普通の人間じゃない 働けないという規定をつけて、かわいそうだからお国が面倒見てあげるということになって、同等な社会の一員としての扱いは受けないで、永遠に障害者。
5.自分が消えてしまいたい、死んでしまえばいいと思うのが、他の同病者にも当たる言葉になってしまうから、それほど重みがある言葉だと認識するべきか
話題提案者より:(自殺したいとか衝動的なものとは別に)一環とした自分の存在価値の捉え方として、障害者としての自分は生きるに値しないと感じる人は多いと思う。それは自分だけのこととして言っているつもりでも、全同病者も生きるに値しないと言っていると同然なのではないか。
逆に言えば、同病者の仲間は生きるに値すると感じるのであれば、障害者としての自分も生きるに値するのかもって希望につながる。
ある当事者にこの考えを投げかけたら、自分に対しての表現は自分の権利であって、自分を超えて責任を感じるものではないとも言われた。
私は自分に対しての全面否定の言葉は、自分以上の重みがあると認識していきたく思うのだが、皆さんはどう思うだろう。
・障害者であるという言葉を脱ぎ捨たいと思っている
・障害者という名前を着せられているけど、ほんとは我々はそうじゃない でも何か変えない限りは永遠に障害者。
・障害者の名前が「政治的に正しい」形でどんどん緩和されていくけれど、それに違和感を感じる
・話題提案者:自殺するのは間違っているという議論とは別のものとして 障害者としての自分は生きるに値にしない と言った全否定の言葉は発した時点で、障害者全員が生きるに値しないと発信していると同然 自分の言葉にそうゆう重みがあるということ意識していきたい。
別の言い方をすれば同病者が生きるに値すると感じるのであれば、自分も生きるに値すると感じられるはず。その希望をもらえたことも忘れないでいたい。
6 働くって何?
・動物は与えられた中で食って生きていく。狩猟段階っていうのは自然からそのままとっていく。資本主義社会は人間を分断し、労働力商品として見られるが、本来原始共産制時代には体も強い人も弱い人も、共同して自然に働きかけながら、社会を織り成すものを創造していた。これが働くことの本質。
歴史的に人は自然を加工していく中で、思いもがけない莫大な生産物を得てきた。ある人たちはそれをコントロールする人、そのコントロールをもった人に労働力を売る以外に生きていけない人と分かれていく。それが人間の本質だというとそうじゃない。類として生きていくことが本質。躁うつ病はそうゆう自然な社会のあり方の中で残るか分からないけれど、残ったとしたら社会の一員として必ず位置づけられていく。それは物質的に何か作ることだけじゃなくて、何か考えること、絵を描くことでもいい。
・食べていくため手段 それが働くことじゃなくていい
・資本主義と言う言葉が飛び交う、その反対は社会主義。中国やロシアは技術的には劣っているけど、格差がないが、それと技術的に発達していて競争があるのと、どっちがハッピーだろう。私にとって働くことは食べていく手段。
・中国、ロシアは社会主義ではない。みんなで社会を作るっていうことを前提にしていない時点でそれは自然な人の労働ではない。自分で食べていけばいいって分断されて競争の元での社会では本当に自然な意味での働いているとは違うと思う。
・社会主義はまだどこにも存在しない。貨幣を使わなくなった、競争がなくなった社会はどこにもない。社会主義が名乗っているところでも競争は強い。資本主義 VS 社会主義って考えるのは間違っている。
・身近な存在としての「働く・働けない」について話したい。平日に外に出るのが気まずいことがある。
7.関東ウエーブとは何ぞや
スタッフより:
アンケートのようにいい悪いだけじゃなくて、当事者会に関して構想があれば是非お聞きしたい。関東ウエーブは既に掲げている理念はある、例えば1.当事者が中心
2.排除はしない、3.スタッフは討論の自由、行動の一致など
前回の「関東ウエーブとは何ぞや」という議題では、スタッフだけじゃなくてみんなで会を作っていくこと、とくに社会に向けて発信していくという意味での会の発展ついて話した。
参加者より:
・躁うつ病の会には色々ある。いわゆる「さわ会」、家族や医療従事者が中心にある会、そうゆう中で本当の意味での躁うつ病の自助会は関東ウエーブしかいない。
・他の会に行ったことがないので、比べようが無い 勉強になりますし 自分が考えもしないようなことで
・有意義で感謝していて 話が長いことがある。休憩時間を上手くはさんでもらえれば・一般の環境では、躁うつ病って何なのって言うのが普通 タブー 同じ病気を持つ人って普段の生活では絶対ない この会は、長いけれど深い HP を見やすくできたらいい。
・勉強になる
・自分たちの目線で自分たちができることをやる
・みんなで作る会 会員と運営の間の透明性 みんなでできるだけ会のあり方を決めていくこと。安易に大きくすることより軸を強くすることを優先する。当事者が中心の会、民主的な会、排除のない会。
そうゆう意識性、責任感をもつことが何より大事。参加者の知らないところで当事者中心のあり方が変貌したり、代わりに会の権力を握った者の私利私欲に利用されたり、都合の悪い人間は排除されたり、感情がデリケートな上社会的弱者である同病者の運命が集まりとして悪い方向に左右されてしまい、生死の問題にまで至ってしまう危険性があるから。
・もっと深く話していく、薬については人体実験って言われるように、私たちの経験から得た知識などはすごい貴重。だから集約して情報発信していきたい
・せっかくなら、オフ会の内容と、掲示板での交流と継続性があった方がいい オフ会の話の続きを掲示板でする。議題募集を掲示板で。オフ会の時間だけだと、難しい話題だと、自分の意見をまとめられないから。空間って大事=和室
・2年前 どうしようもなく孤独な状態で、ここにいると雰囲気がいい。この会って言うのは当事者は身近な、生活に密着して、自分にとってすごい大事なこと、生きているの関東ウエーブのおかげで思う。
・関東ウエーブがないと生きていけなかった 会のあり方は私のあり方そのもの例えば、「排除をしてはいけない」「人は集まりとして自立する」 いい会にしていけるように、当事者の力で当事者のあり方に革命を起こせるようがんばっていきましょう。